どれだけの人が人の死を願うのだろうか。殺したいと思うほど人を憎むのだろうか。私は長い長い間それを持ち続けていた。絶望に膝が折れ、嗚咽が喉から込み上げ、胸を掻きむしりながら願うそれは祈りにも似ていた。2002年の年末。その願いは叶えられようとしていた。駒沢公園横にある国立医療センターのベッドに横たわり、管で繋がれ、モニタに命が数値化されていくだけの肉塊。父だ。
父との二十年戦争の果ての絶縁。親族の「最後だから」「意識はないから」の言葉に報いるためだけに足を運んだ病室。その死に「待った」をかけたいはずもなく、だからといって喜ぶ気にもなれず、親族との会話も面倒で最上階の喫煙室へ逃げ込んだ。
早朝の誰もいない喫煙室。窓の向こうには富士山が見えた。煙草に火をつけ、それを眺めた。父のことも、これからのことも、何も考えたくはない。ぼんやりするだけの時間が続き、そしてふと思う。これだけ遠いと富士山がハリボテであっても私には真贋がつかない。距離、実体、認識。美術の授業で習うようなことを思い出し、そして思考はまた別に向く。
もし。もし父が地球の裏側にいたなら。宇宙の果てにいたなら。死んでほしいと、殺したいと思ったのだろうか。近くにあれば測りようもなく思える富士も距離が山容を表し、平面となり、やがて点となって消えていくように。私の憎しみは物理的な問題だったのか。いや、それも違う気がする。ならば、父が死んだからといって憎しみは消えない。とりとめのない考えに二本目の煙草に火をつけようとした時、院内アナウンスが私を呼んだ。
年末の澄み切った青い空を見ると父を思い出す。いい話に?なりません。あー、はいはい。線香の一本ぐらいね、わかってますよー、だ。どこの世界に親を憎みたい子どもがいる。父を大切にしたかったし、愛したかった。うん、だからわかっているって。それは子どもの都合。私の都合。私は、私に都合の悪い父を大切にできなかったし、愛せなかった。そういうことだ。だからそのぐらいはわかっているんだってばよおおお!
と、今現在、駄々っ子のように暴れているにはワケがある。実はこのブログを括る文章を用意していた。この件については考えに考え抜いてきた。何なら本の一冊ぐらい出せるんじゃないの?ぐらいにまとまっていたわけよ。でもね、昨日になってまた違う考え方も出てきちゃって。いやあああああああ!!!もうどうでもいいってことで、どうだろう???うん、まあね。父を赦すより、私自身を赦す方が先ってこともわかっているんだよおおお!!!(何年何十年か後へ続く)
剪定
山
大掃除。今年こそ越えねばならぬ山がある。それは生地の山。日暮里でネットで集めまくった生地を入れた袋が持ち上がんない。心を鬼にして大量処分。
リアルタイム
| 今季最後の一輪残し、剪定完了。 今年もロマンティカはよく咲いてくれました。 |
大掃除。今年こそ越えねばならぬ山がある。それは生地の山。日暮里でネットで集めまくった生地を入れた袋が持ち上がんない。心を鬼にして大量処分。
| でも来年は裁縫もやりたいから多少は残す。 この花柄はキャミソールにするんだ〜。 |
リアルタイム